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サムライの仁愛

新渡戸稲造の武士道に、『武士の仁愛は他の者の仁愛と異なる訳ではない。しかし武士においては正義を忘れない仁愛があり、その背後に,相手に対する生殺与奪の権力を有した愛なのである』と書いています。

 

何か、チンプンカンプンで判ったような、また判ってないような気持ちにさせられますが、今回僕の著書『サムライの言葉』で例を挙げて説明させてもらいましたが、ここではまた少し違った表現でその趣旨をお伝えしたいと思います。

 

兎に角、説くのにこんな難解な言葉はありません。 

単純に表現すれば、生かし、殺し、与え、そして奪う。と云うことですが、武士道でのそれはまたニュアンスが違うのです。

 

先ず仁愛があり、それ故に義に発する権力が付いて来るのです。 

簡単に言えば、愛があるから生かす権利もまた殺すことも自在。 

『良いな。我が愛を与えようぞ。しからば必要な時には裸となり、我が為に命をも投げ出せ。』と言う権力者の独善的権力なのです。 

生かしてやっているのだから、殺しても良し。与えたのだから、返して当たり前。

 

これこそ『生殺与奪』サムライの恐ろしい思い込みです。

 

その生殺与奪を聞きましと、直ぐに思い出すのが織田信長です。 

明智光秀には分不相応な出世をさせました。一介の浪人の身分から、領地も城も与えられたのです。

 

しかし、信長は自分の都合でその両方を取り上げました。心では、『待て。悪いようにはせぬ』だったのでしょうが、やられた方は酷い、横暴だ。となります。

 

結果、光秀は信長を討ちました。

 

しかし、現代でも生殺与奪を行う会社はあります。 

昨日の社長も今日は平社員。そんな話はいくらでもあります。

 

権力者の身勝手こそ今日に残る『生殺与奪』の独善と言えるのでしょう。