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今回の地震に寄せて

被災地の皆様のご苦労、哀しみ、苦しみを考えますと言葉を失います。 

我が身に同様な災害が襲ったと仮定しても、それはあくまで仮定。被災者の身には到底及びません。

 

特にお亡くなりになった方々とそのご家族の思いを想像すると全てをなかったことにしたい気持ちに駆られます。しかし、消すことの出来ない哀しい事実なのです。行方の知れないお身内が見つかり、一日も早くその方々の安否が判明しますよう深くお祈りいたします。何も出来ずに口だけのお見舞い、心苦しく感じます。

 

平安に馴れ、それが常であると錯覚していた自分自身の傲慢さに恥じ、心底我が身を責める心を感じさせられました。良心的言動の前に、自問自答があり、“何だ、お前は人様を労り身を挺して善行を施せるのか。”そんな声が聞こえるのです。

 

思い起こせば子供の頃の冬の朝。起きると火鉢に火が入り、ただそれだけの暖でも嬉しかったあの頃。炬燵に入れた火がほのかに暖まって来るその瞬間があれほど幸せに思えた時代を忘れる程の時が経ったとは思えません。

 

都知事が“天罰”と云った意味が理解出来ます。悪意にとれば別ですが、その言葉が被災者に向けられたものでないことは明白です。我々の選んだ一国の知事がそれほど非常識である筈はないでしょう。

 

便利に馴れ、金さえあれば何でも叶うと思う心への戒めと受け取っています。実際ガソリンも食料も、電力も料金を払ってもどうにもならないではありませんか。平和で豊な日本は幻であったのか、それともうつつ(現実)か。

 

やがて訪れるであろう事後処理や経済的な危機を予感し、己に倹約を施し試練に備えなければなりません。それでも我々はまだまだ幸せです。その幸せを大切に守って行くこともまた被災者へのご供養ではないでしょうか。

 

形だけのお見舞いであり、お悔やみであってはなりません。この出来事を教訓と受け止めることは同情や悲観以上に大切なことだと思います。

 

心したいことは『奢れるもの久からず』

 

2011年3月19日

成嶋弘毅