幕末、勤王か佐幕か、まだどちらかとも云えない時期がありました。その間、勤王派は勤王を大義として信じ、佐幕派も夫々が夫々の主張を信じていたのです。しかし、徳川の将軍の大政奉還を境に多くの佐幕派は崩壊して行きました。徳川が正当と信じていた者がその刹那大義を失ったのです。大義を失ったサムライほど弱くもろい者はなのです。支えを失った堤防のように崩れ崩壊するのです。しかし、その中に己の大義を持ったサムライはそれに屈しませんでした。新撰組の局長近藤勇の大義は徳川で副長土方歳三の大義は武士の一分である“武”そのものだったのです。武士の本分とは、平家物語で語られた『我右筆の身にあらず、武を持って君に仕え奉ると云う本分あり』この文言がサムライ本来の一分なのです。
そこには政治も経済も介入されません。武こそサムライの大義だったのです。掟に縛られていた筈のサムライに大義を失った者とまたそうではないサムライがいたことが驚きでもありました。サムライはどこに義を置くかに拠って生き方が違って行くのです。榎本武揚の大義は、徳川の正義を信じ蝦夷の地にリパブリック(共和国)を築くことでした。その為諸外国と交渉を進めましたが認められず断念します。その刹那やはり戦う大義を失ったのです。大義に弱いサムライだったのでしょう。近藤勇同様、帝に楯突く悪人になりたくなかったのです。はやり分類で云えば右筆だったのかも知れません。それに帝を大義としたサムライの狭い了見にも今更驚きます。しかし、維新を為し遂げた人達にはその了見は見受けられません。
これは小説の上の話ですが、浅田次郎.著『壬生義士伝』の主人公が鳥羽伏見の戦いに残した台詞があります。『自分は天皇さまに弓引く気持ちはないが、徳川に受けたご恩に報いる義理により貴方様に立ち向かうことお許し下さい』と云い残し戦いの場に臨んだのです。あれほど妻子の為に身を粉にして生きた男のそれが大義だったのでしょう。浅田次郎氏は武士道の根幹を知って居られる方とお見受けしました。それは、氏の『お腹召しませ』からも伺えます。我々現代人も目的次第で生き方が変わると云う見本です。
2010年10月6日
一風
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