とは云え、人間は嫌らしい生き物でもあり、他人の成功、武勇、幸運、良縁や富などの幸運を喜ばしく聞く人はとても珍しいのです。それが証拠にまだ人生の経験の少ない小さな子でさえ既に焼きもちや、妬む感情を持ち合わせている事から見ても人間の本能的習性の恐ろしさを思い知らされます。
上のように酒席での主役に阿て(おもねる)お話に感心してくれたり、憧れ崇拝を示す後輩や社員は多くいるでしょう。危ういことはそこで自慢が留まらないことです。更に調子に乗りエスカレートし『なっ?聞いての通り俺ってこんなにビッグなのにどうしてお前等はダメダメなんだ』まで行ってしまうのです。そこで仮にも盛り上がった好感が一挙に醒め、恨みに変わって行く瞬間を迎える事になるのです。ようするにせっかく自分の自慢話を聞いてくれる人に威張ってしまってはならないと云う事です。それは酒の席に限らず、普段から心がけるべきお約束です。何れにしろ必要以上に人の感情を高ぶらせる怖さを知るべきです。
僕の思う自慢の条件について触れたいと思います。僕自身決して沈黙を金と思う信仰はなく、自慢もおおいにします。しかし、その話は自分にリスクを課した物事に限っている事です。例えば、三十年以上努めた会社で平社員時代から取締役、常務と専務時代を通し九時半から五時半までの定時を守り抜き、唯一社長時代だけ一時間譲り六時半に退社したと云う自慢ですが、これは事実であり、リスクも無い訳ではありませんでした。更に、思い上がりからでは決してありません。充分に労力の面で条件を満たしています。道場では今でも肉体的自慢でスタミナとパワーや筋肉の量を誇ることがあります。それも又毎日の精進あってこそ得られるものだからです。それでも更に満たされない値ですが、条件の一部にはなると考えています。
これもまた自慢かな。
自慢話の出来る相手は本当に心を許し合った者か、唯一身内だけにすべきです。さもなければその代償に計り知れないものを失う可能性もあるからです。己の栄光を人に語るには人を陥したり得々と語るべきではないのです。聞く方も上に阿るのならば社交辞令の内に留めることを心したいものです。面白く、楽しいが故の行き過ぎですが、話す方聞く方、お互い踏み込んではならない聖域なのです。『自慢も、それを知ってすりゃ~良いのさ』と誰かの声が聞こえて来そうです。
2010年9月1日
一風
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