実は一人っ子として生まれ育った為でしょうか、僕は幼少の頃ひどく人見知りしたり、無口で人と打ち解けることが極端に少なかったのです。
親はそれを嫌い、誰とでも親しく雄弁に話す事を望みました。
それが叶わない為に子供達との仲間入りも侭ならず思うほど楽しい仲間との少年時代を過ごす訳には行きませんでした。一人で送る毎日が多く、まだテレビも一般に普及しておらず友は主に本と音楽や空想だったのです。
本当に人が鬱陶(うっとうしい)しく思え、話す事が苦痛にならないようになったのは
19才の折、留学した頃からのように思います。更に話す事と意思の表現が重要であると感じ始めたのは北米(アメリカ&カナダ)での活動が盛んになった頃当たりからでした。国内と違い外国では自分を変えて行く事にあまり躊躇せずに済んだのは単なる環境のせいもあったのでしょう。
お陰でその頃、話す楽しみを知り、外国語を操ることの楽しさも覚えました。
結婚前の時期も通算すれば半世紀に渡る付き合いの愚妻も若い頃の僕がおしゃべりであった記憶はないと言います。最近自分で戒めるのは雄弁ならばまだしも多弁になっている時です。多弁とはまだ聞こえが良いですが、それを越えた男の“おしゃべり”は頂けません。上の生い立ちからしても僕が多弁、おしゃべりになる可能性は低い筈なのですが???。反動???
意識しながらも何時しかおしゃべりをしている自分を顧みて思うに、人へのサービス精神が旺盛で、それが調子に乗るとおしゃべりに繋がるのです。
三島由紀夫氏が以前どこかで多弁に関する批判を書いておられました。
確かに多弁は雄弁とは異なり、色々な意味で印象を悪い方向に変えてしまう危うさも内蔵しているように思います。“多弁は幻滅を招く”がそれで、“沈黙は金なり”もそこら辺りから生まれた言葉なのでしょう。僕の次女はおしゃべりでして、沈黙、寡黙は愚者の知恵。などと雄弁を肯定しておきながらも、他人の度をこえた多弁は嫌っております。
とにかく戒めるべきおしゃべりは特に(好みの話題)です。つい調子に乗り度を過ごし易い要素が満載です。得意分野には確信以上の過信も更に上乗せされるので充分注意すべき行儀作法と思うべきですが、誰もが迂闊に踏み外してしまう危うい仕儀です。酒席の作法でもやはりこれを戒めております。
多弁の起りも、もしかしたら普段から法度としている思い上がりと自分よがりの自負心かも知れないのです。聞かせてやる。どうだ、感心したか。の奢れる心が為せる結果であり慎むべき危うい行為です。怖!コワッ。
2009年7月4日
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