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精神の潔さ

この世に正義感のない人間はまず居ないと思いますが、人間は都合によりそれをすり替える事の出来る生き物でもあります。但、正義はご都合主義的な要素があっても”精神”は哲学となり心との繋がりから変えたり、曲げた時の痛み苦しみが大きく、人間を純粋に保つ助けになるのです。自責の念もそこから生まれる感情です。

 

人間は無意識にも己の心を支える義の精神を持とうと努力します。誰しもそれが必要なのでしょう。水滸伝での義は”賛天行道”でした。頭である宋江が書き記した思想の冊子名であり旗印であり、その思想の下に梁山泊に集った義賊の精神教本(Bible=バイブル)なのです。

 

幕末の日本で勤王の志士が唱えた義が”尊王攘夷”でした。果たしてその精神が明治維新後も守られたかは別として、義によってなされる行為には何事にも大義名分を必要としたのです。 

”義”は個人、組織や団体を問わず、夫々が持つ精神の支えなのでしょう。

 

◎利休の弟子、宗二が心の支えとして持ち続け、諳んじた和歌があります:ー 

 

 汚さじと

 

  おもう法度のともすれば 

 

   世わたるはしと なるぞかなしき

 

詠み人:慈鎮和尚

 

◎自ら潔い生き方を心掛けながらもいつのまにか世渡りがうまく 

なっている自分が悲しいと言う意味です。

 

秀吉を悪趣味と決めつけ、最期迄抗い命を落とした宗二の勇気と信念を羨み、 

利休は己を顧みて嘆いたと云います。 

その思いが結局利休を死に追いやることになったのです。しかし、利休もまた宗二も死に臨みながらも”義”を支えにそれを迎えたであろうと思えます。 

支えさえあれば死も恐るるに足りないという事なのでしょう。 

されど、『だからどうした!』と言えば全てが空しくもなるのです。 

『所詮人生は一時の夢、叶わなければそれまで』従って、好きな生き方こそ信じる人には何にも勝る望みであり夢なのです。

 

潔い大和心もそんな処に繋がるのではないでしょうか。

 

『人間一生誠にわずかのことなり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして暮らすは愚かなる事なり』 

 

葉隠より。

 

2009年6月22日