文字通り一点の曇りもない鏡に、静かに澄んでいる水。
これぞ明鏡止水なのです。
これを人の心に例えると、わだかまりを持たず、安らかに落ち着いた心境と言うことですが、到達出来そうでまた、これほど難しいこともないのです。
武術は相手に対し“動”の体、これに伴う“静”の心に明鏡止水が宿る事により至高の境地に至ると言います。果たして生身の人間にそこまでの昇華が可能なのでしょうか。
この心境を思う時、同時に頭に浮かぶのが“木鶏”です。
「木鶏の教訓」
紀省子(きせいし)という闘鶏調教の名人が、王様自慢の素質に恵まれた鶏の調教を任されたのです。
王様からの依頼の条件と言うのは、国で一番強く、いかなる相手にも負けない闘鶏でした。
気が短く我侭な王様は幾日もたたぬうちに『もうぼつぼつ試してもいいのではないか』とせっつくと、紀省子は、『まだ、その段階ではありません。やっと気が整い始めたところです。』と断りました。
仕方なく引込んだ王様は、また十日もたつと、もう我慢出来なくなり『そろそろどうじゃ』とせかせます。それでも紀省子は
『相手を見ただけで瞳が泳ぎ、いまだに気が高ぶる有り様です』と、
取り合いません。
それから更に待たされた王様は、もう我慢もこれまでと、紀省子の尻をたきますが、答えは『印象では落ち着いたかに見えても今度は自分を衒い(てらい)相手を侮り(あなどり)嵩(かさ)にかかって見せる始末です』
またもや渋々引き下がった王様でしたが、それから間もなく名人が『もう、ぼつぼつよろしいでしょう』と、オーケーを出したのです。
そこで布で覆われた鳥籠が王様の御前に運ばれてきました。
王様は期待に胸躍らせながら紀省子の手が布を外すのを見て、
『なんだこれは』と怒りを露に紀省子に詰め寄ります。
籠の中身は木で作られた鶏だったのです。
紀省子は少しも慌てず『これぞ王様が求められたいかなる相手にも負けない闘鶏の完成です』と答えたのです。
この寓話には様々な教訓が含まれています。
『競わず』むやみに競争心をかりたてぬこと。
『衒わず』自分を誇負(驕り飾る)せぬこと。
『瞳を移さず』“きょろきょろしない”瞳は正に”心”を映す鏡。
『騒がず』明鏡止水の如く静かに穏やかに物事を見定める心。
なお、紀省子の行動は王様の求に対する一種の皮肉であり生身の闘鶏に負けない鶏はないと言う”理”を暗示したのです。
なかなか並の人間には悟り切れない教訓でありながら、僕はこの教えを常日頃心に置き、己を戒めております。ただ武士道の荒ぶりとは相反する”仁”の部分が強い思想のようですが、平時の武士道はこうあるべきものなのです。皆様がこの教訓をもとに自己確認をなさるのも益のある行いと思いつつ、お勧めしております。
塾長 成嶋弘毅
2009年4月10日
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