武士道に根付く感情には一貫した主観がありました。武士が見ては忌み嫌い、また逆に見られては死に値する濯ぎようのない熱い恥の心があるのです。武士は常に尊厳を持ち己を律し毎日を送っていると言う誇りが大前提にあるため、それを他人から否定されると死に値する恥と受けとめてしまう激しくも脆うい思想です。現代でも思い込みが強ければ強い人ほどそれを否定された時の傷付きようはやはり半端ではありません。確信と誇りがその感情を生むのでしょう。
要するに必要以上の熱は危険でもあるのです。
確信に満ちた自信と実績に対する自己評価が人からのものと食い違った場合、簡単に傷付き、それを屈辱と思ってしまう癖が侍には多く見受けられました。
現代人にもそれを感じるのは古く武士道からの影響を受け継いで来た結果でしょうか。
誇りは奢りと背中合わせでもあるのです。過ぎた誇りは人間を尊大にし、他を傷付けるものです。いい加減な人は時として付き合い易いのもそのせいではないでしょうか。葉隠で言う大高慢も信じる事への信念も必要なのですが、感情を押さえ切れなくなる危険性も否めないのです。
若い頃は僕も自分自信の能力に自信を持ち、萎えることのある心を鼓舞し、積み上げて来た実績の自己評価も高いもの(思い上がりの心)でした。思いたくないのですが、いま考えて見れば嫌な奴に見えていたかも知れません。
そこで僕が今現在大切にしております心の支えは“自尊心”です。
それは密かにおのれの内で守り続けるものであり、品位や品格を高める落ち着付と、自己を尊ぶ心です。戦国時代の武将のように死んで恥を濯ぐような狂おしい激しさのおこらない静かな矜持だと思っております。
塾長 成嶋弘毅
2009年3月27日
コメントをお書きください